川瀬 誠(かわせ・まこと)45歳は、オフィスビルのエレベーターに乗り込んだ。
金曜の夜、19時過ぎ。
週末を迎える解放感よりも、空虚な疲労感が先に立つ。
「お疲れ様でした」
部下たちの声に手を振って応え、一階で降りる。
スマートフォンを取り出すと、妻からのメッセージが届いていた。
「今日も遅いの?夕飯は済ませておいて」
既読をつけず、画面を閉じる。
家に帰っても、会話はない。
息子二人は大学生で、週末しか帰ってこない。
妻とは、いつから「同居人」になったのだろう。
「川瀬さん、飲みに行きませんか?」
営業部の後輩、三田が声をかけてきた。
断る理由はない。
というより、まっすぐ家に帰りたくなかった。
駅前の居酒屋。金曜の夜で混雑している。
三田と、もう一人の同僚、北川の三人でテーブルを囲んだ。
「最近、嫁とどうですか?」
北川の軽口に、誠は曖昧に笑った。
「まあ、普通だよ。子どもが独立しかけると、夫婦の距離感も変わるからな」
嘘ではない。でも、本当のことも言っていない。
二軒目は、三田の行きつけのバーになった。
カウンター席に座ると、隣に女性客のグループがいた。
三人組。
仕事帰りらしい。
ワインを注文すると、隣の女性と目が合った。
40代前半だろうか。
落ち着いた雰囲気と、どこか疲れを隠しきれない表情。
「すみません、少し狭いですよね」
誠が声をかけると、女性は柔らかく笑った。
「いえ、大丈夫です」
自然と会話が始まった。
仕事の話、街の変化、趣味のこと。
三田たちも、女性のグループと打ち解けている。
やがて、北川が「次はカラオケ行きましょうよ」と提案した。
時計を見ると、22時を回っている。
カラオケボックス。
狭い個室に六人が入り、マイクが回る。
誠は歌が得意ではないが、酔いが回ると声を出すことに抵抗がなくなる。
隣に座った女性――名前は「ユキさん」と呼ばれていた――も、控えめに歌っている。
その姿が、妙に印象に残った。
「川瀬さん、お上手ですね」
ユキが笑顔で言った。
お世辞だとわかっているが、久しぶりに褒められた気がして、嬉しかった。
一時間ほど経ったころ、北川と三田が「そろそろ終電が…」と席を立った。
女性グループも、二人が先に帰るという。
残されたのは、誠とユキ、そして彼女の友人一人。
「私も、そろそろ…」
友人が立ち上がると、ユキは少し寂しそうな顔をした。
「私も帰ります」
誠は伝票を取り、会計を済ませた。
店を出ると、夜の冷気が心地よい。
「駅まで、ご一緒しましょうか」
自分から声をかけた。
ユキは少し驚いたようだったが、頷いた。
並んで歩く。街灯の明滅、遠くの車の音、足音だけが聞こえる。
「今日は、楽しかったです」
ユキが言った。
誠も同じ気持ちだった。久しぶりに、何の役割も背負わずに過ごせた時間。
駅前に着くと、終電の時刻まであと15分。
でも、誠は足を止めた。
――このまま別れたくない。
理由はわからない。
ただ、この女性と、もう少し時間を共有したかった。
「あの…失礼な提案かもしれませんが」
声が震えた。
こんな誘い方をするのは、何十年ぶりだろう。
「もう少し、話しませんか?静かな場所で」
ユキは、じっと誠を見つめた。
その視線に、拒絶ではなく、迷いが見えた。
「…はい」
小さな声。
でも、確かな同意だった。
ホテルの部屋。
ビジネスホテルではなく、少し高級な場所を選んだ。彼女を大切に扱いたいという、無意識の配慮だった。
部屋に入ると、二人とも言葉を失った。
どちらから動くべきか、わからない。
「あの…」
ユキが先に口を開いた。
「私、こういうこと、初めてで…」
その言葉に、誠は少し安心した。
自分だけが緊張しているわけではない。
「僕も、です。正直、どうしていいか…」
二人は顔を見合わせ、笑った。緊張が少しだけ和らぐ。
「焦らなくていいですよね」
誠が言うと、ユキは頷いた。
ソファに並んで座る。距離は近いが、触れ合ってはいない。
誠は、ゆっくりと手を伸ばした。
ユキの手に触れる。
冷たい指先。
「大丈夫ですか?」
「…大丈夫です」
手を握る。そこから、すべてが始まった。
キスは、問いかけのように始まった。
拒まれれば、すぐに引く覚悟で。
でも、ユキは目を閉じた。
唇が触れ合う。
柔らかい感触。
心臓が激しく鳴る。
服を脱ぐ過程は、思ったより自然だった。
互いに、長い間封印していた感情を、一枚ずつ解放していくような感覚。
ベッドに横たわり、肌が触れ合う。
ユキの身体は、思ったより温かく、柔らかかった。
これは、裏切りなのだろうか。
頭の片隅で、罪悪感が囁く。
でも、それ以上に、今この瞬間の実感が強かった。
誠は、ゆっくりと動いた。
急がない。
確かめるように。
ユキの表情を見ながら、反応を感じながら。
彼女の吐息が、耳元で揺れる。
手が背中に回り、爪が肌に食い込む。
痛みと快楽が混ざり合う。
生きている。
今、確かに生きている。
頂点に達した瞬間、誠は声を押し殺した。
でも、ユキは小さく声を漏らした。
その声が、誠の中で何かを解放した。
事が終わり、二人はベッドに並んで横たわった。
汗が冷え、呼吸が落ち着いていく。
「…ありがとうございました」
ユキが言った。
誠は驚いた。
「こちらこそ、です」
沈黙。でも、心地よい沈黙だった。
「連絡先、教えてもらえますか?」
誠が尋ねると、ユキは少し考えてから、首を横に振った。
「今夜だけにしましょう。続けると、きっと辛くなるから」
その言葉に、誠は何も言えなかった。
正しいと思った。
でも、寂しさもあった。
「…わかりました」
ホテルを出ると、夜明け前の空気が頬を撫でた。
タクシーを拾い、ユキを先に送る。
「お気をつけて」
「あなたも」
短い別れの言葉。
タクシーが走り去るのを見送り、誠は深く息を吐いた。
自分のタクシーに乗り込み、自宅へ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、誠は考えた。
――私は、何をしてしまったのだろう。
でも、後悔はしていない。
矛盾した感情。
罪悪感と充足感が、同時に存在している。
